人気ブログランキング | 話題のタグを見る

波多野均つれづれアート

hatanoart.exblog.jp
ブログトップ

どうして、パリなんかに来ちゃったのか・・・その9

どうして、パリなんかに来ちゃったのか・・・その9_a0153141_19232280.jpg
写真はパリ六区、地下鉄のサン・ジェルマン・デ・プレ駅からボナパルト通りをセーヌ河にむかって歩くと、左手にパリ・ボザール、国立美術学校が見える。ずいぶんきれいになったが、渡仏した当時はフランス学生運動の五月革命の余波で、壁はアジテートのグラフティ・落書きだらけ、中庭はテントが立ち並び、雑然としていた。画学生たちから、メゾン・ド・コッション、ブタの家・豚小屋とよばれていたほど、おしっこ臭くて汚かった。                                               五月の下旬に、パリ六区のラスパイユ大通りにあるアリアンセ・フランセーズ、フランス国語の語学学校の学生寮から、パリ南郊のロバンソンに引越しました。引越しといっても、二人分の旅行カバンだけだから、しごく簡単・・語学学校の授業は六月も続けることにし、一ヶ月の学生寮生活には、オサラバ・・しました。パリの南下にあるダンフェル・ロシュロでメトロ・地下鉄を南郊外線のB線に乗り換えて、ロバンソンまで各駅どまりの電車で、約三十分・・・東京のことを考えると、近い距離です。現在では、このB線は、すごく便利になり、パリのど真ん中、シャトレ駅・・・あらゆるメトロ・地下鉄ラインが交差している。北駅・・・UK行きのユーロスター、ベルギー・オランダ・ドイツ方面行きのタリス、リール方面行きのTGV、テー・ジェー・ベー、フランス版新幹線・・を通過し、C・D・G、シャルル・ド・ゴール空港までつながっている。この交通手段を知っていると、シャルル・ド・ゴール空港からパリ市内に簡単に入ることができる。・・・なんか、おいでませパリの交通案内みたいになってしまったけれども、非常に便利なりました。語学学校に在籍したのは、学生ビザのためでした。この証明書がないと、六月のボザール・美術学校の入学試験を受けることが出来ないからです。ツーリスト・旅行者はビザなしで、最高三ヶ月の滞在が可能ですが、身分証明がパスポートだけなので、本当にフランスにとってはお客様・・・外貨を落としてくれる大切なお客様・・・なのです。                                                六月に入り、いよいよ、パリ国立美術学校の入学試験の日になりました。前日から、いろいろと第一次試験の実技内容や時間、・・等々を確認し、午前と午後、ぶっつづけの実技試験なので、お弁当を用意することにしました。・・腹がへっては、戦いくさはできぬ・・フランス人学生は、フランスパンのサンドイッチを持参していました。・・・この七十六年頃は、マクド・・マックという超便利なファーストフードはフランスに存在しませんでした。油絵の実技試験は、東京の美術学校の続きのようなものですから、まぁ、それなりにお昼近くまでに、八分ぐらいに仕上げることができました。お昼になり、フランス人学生はフランスパンのサンドイッチをゴソゴソと食べ始め、じゃあ、こっちも昼めし、昼めしと・・試験会場でお弁当を食べ始めたら・・・その初めて見る、ジャポネ・日本式のお弁当がめずらしいのか、なんなのか、フランス人の学生たちが集まって・・・ケスクセ?なんじゃ、それ・・・って、口々に・・大変な騒ぎになりました。そのお弁当は、正しい日の丸弁当・・・ごはんの真ん中にウメボシが入り、フライパンで焼いた缶詰のオイル・サーディン・・イワシのショウユ焼きがのっかかって、・・・試験会場のアトリエいっぱいにイワシ独特のにおいがたちこめて・・・タマゴ焼きもついている。さらに、お弁当全体が海苔で真っ黒におおわれて・・・それを器用に、バゲット・棒のこと・・を二本、使って食べてる・・・きっと、東洋の現代美術パフォーマンスが始まったと思っただろうね、かれらは・・・反対にフランス人受験生にとって、そのお弁当との出会いは未知との遭遇・・生涯忘れることの出来ない、超最高のカルチャーショックだったかもしれない。・・・続く・・・フロク、これは1976年の六月のパリのお話し、五月に渡仏して右も左もわからなかった、フランス人の友だちもいなかった、23歳の時だった・・・
by h-hatano-art | 2010-02-13 08:30